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子どものいじめ防止<可児市青少年育成シンポ>開く!

 11月9日岐阜県「可児市青少年育成市民会議」主催で開かれました。
2部構成で、初めに「可児市のいじめ防止の取り組み」の報告を(市)人づくり課の統括する部署よりパ―ポイントで投影され報告された。

 子どもの身心へのいじめ防止を学校や家庭だけでなく地域を含めた共通の認識での取り組みが大事であるが、全国に先駆けて可児市では、事案対応解決のための実践のキーステーションとして、「いじめ防止専門委員会」と学校の先生の公務員での秘守義務の解放のため等の「子どものいじめ防止条例」をつくった。また、いじめ事案への対応の取り組易さと共に子どもからのいじめの事案への相談体制が何時でもどこでもフリーダイヤル・インターネット等の全ての方法での相談可能なシステムを構築された。

被害者の「いじめの閉じ込め」を「いじめの解放」へと変化させ、その上に地域住民へのいじめ防止への活動で取り囲む理想的な防止活動を目指すこととなった。こうしたことで普段での市民の責務の実践が、大事となった。この点の具体的な動きとしての実践の報告があった。

その一つがいじめ防止協力団体・事業所の募集があり、約120か所の多くが認定された。
本センターも団体第1号認定書を授与された。
その主な活動内容の発表が報告された。数例の中には、本センターでの学校でのこどもの人権の育みとして主に3つの事業を紹介された。「人権本巡回制度」(読書人口:年間2000人以上)・「標語・300字小説の募集」(約2000人以上)・「子どもぬくもり教室」(3と4年生対象:年間2教室約350人)の実績を上げるようになってきたことの報告をされた。特に地域の自治会の対応が2例あったが、こうした動きが、大きな渦となり扇動され良き方向に拡大することを期待したい。

第2部は、作家の石川結貴さんの講演があった。
「大人の知らない子どもの世界」というテーマでのお話であった。掻い摘んで記して置きます。
(捉え方は、筆者考で加筆して記した)
1、可児市は、子どものいじめ防止のシステムを全国に先駆けて造られた。特に子どもが何時でもあらゆる情報ツールの手段で相談できる体制は、他にはない。
2、サザエさんとポケモンの時代の差異で、考えや行動が大きく変わっている。子どもたちは、すべての事象に「追われ主義」で、より「目先主義」・より「個人主義」で生きるのに精一杯である。このように子ども社会は、生きづらい社会になっている。真の友だち作りができ難い。「教室は例えていれば地雷源」と言われる状態になりかねない。
3、「個人情報保護法」のプライバシー権の境が、分かり難く社会的に過度に解釈され、親や学校が情報の拡大に神経を尖れている。使い方途を考え対策せずに、作ってしまう。これ以外にもスマホ等でも悪い大人たちが、悪行為のサイトづくりをしている。またラインのシステム・サイトも同様に大人が作って起業して子どもの育みをやり難くしている。
4、子どもの遊び場所・育ての場が殆どない。地域の人も、自分の子ども時代を忘れて、公園等に、規制をかけ遊ばせない。行政も種々言われると煩わしいので自治会等から言われると、これに呼応してしまう。「排除の論」の事案が強くなってきた。その「代替の論」が欠如している。
5、ゆえに、家での携帯スマホ・情報インターネットのアプリ世界が、救いの憩いの場となってしまっている。
6、IT社会から、ICT社会へと子どもたちは、変化している。Cは、コミュニケーションで知りあって拡がりのある友だちづきあいができているのである。危険が潜んでもいる。
7、子ども社会は、大きく変わっている。大人の儲けの理論で作ってしまったツールである。大人が子どもに良き教え方をしないで、ツールのみを流行らせてしまった。問題の起こる社会では、ノーと言える強さある子どもづくりが大事である。生きていく逞しい心を育てることである。
8、情報機器の発信記録は、必ず発信者は分かると言うことを、子どもに言い聞かせ指導することである。
9、悪いことは、必ずバレることを教育することである。筒抜けであることを良く言うことである。
10、「関係を築き、環境を作り、時間を与える」が大事である。自分からの関係作りを勤しみ繋がる人・支えてくれる人・受け止めてくれる人等の関係を気づきあげよう!自然性で居られる場所づくり、新しい体験ができる場所づくり、失敗してもいいしカバーできる場所づくりを!焦らずにやろう、時間をかけてやれば解決することを教えよう。「失敗は成功の元」のメッセージを。
11、大人は、すべてうまく人生を生きた人はいないのだから、自分の体験を話してあげよう。
12、最後に、「分かりあう」より「分かち合う」ことが大切です。

<総括>
 子どもの世界を良く取材されている方の話は、聴き応えがあるもの。話の筋が分かれば、すべての論理が、メモなしでもこの報告ができていきます。
 人間社会は、科学や環境の変化で、あらゆるものが幾らでも変わっていくもの、新しいものができる時に、生活上での経験面・倫理面等の影響に敏感に対応処置をしないと、今の世のような状況が起こって来る。昔のことを幾らいっても今の子供には通じ合わない。道具での文化が違いすぎるからだ。
 残された普遍的なことは、いつの世も同じで「人は何のために生まれ出たのか」「人はなぜ生きるのか」「何のために働くのか」等の「何のため」を主題とした人間の底辺を流れる源は何かをわかり易く説いていく以外にない。大人のいい加減さのツケの是正こそ必要である。
 道徳教育の正科化が叫ばれているが、どこまで子どもの立場からの幸せを考えたものになるかである。こうなるべき論を命じ訴えても、また、元の黙阿弥であろう。
 道徳教科は、後追いの子ども教育であることの反省を、先ずしてからにしてもらいたいものだ。(y・k)