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ホーム活動報告

終戦記念日に寄せて

 今日は、68回目の終戦記念日である。正午に黙祷して、戦没者への哀悼と平和を祈念した。
  平和を願い戦没した人々の心は「戦争こそ人権の侵害どころか破壊そのものである」と叫んでいるに違いない。そして魂は、平和の二字を思い見守っていてくれているに違いない。
 戦争を知らない人、又終戦後の食糧難の中、生きてきたあの苦脳の世代も少なくなって来ている。
 戦争とはどんな悲惨なものか、勝負の判定の問題ではなく、両者に哀しく悲惨さが残る事であり、特に虐げられた方に怨念の命が奥底に残り、ある事象の時に、この時ばかりと胸奥からむむっくりと起き上がるのである。そうして何かの反事象の時、この位のことはやっておかねば相手は分からないであろうと思い、やると互いにエスカレートしてやり出すのである。小さなこのようなことが起こった時に直ぐ合って話し合いをすれば事は収まるのに、それすらしなく「子どもの喧嘩」のように会わずにコメントの言い合いをして納めようとしても、過去の歴史観により出てきていることを忘れているのだからどうようもないのである。愚かさがそこにはあるのである。あるいは、したたかさでそのようにしながら国民感情を軍備モードにベクトル誘導しようとしているかもしれない。
 ともかく応酬戦とならぬよう、普段から友好の対話をして、仲良く助け合う隣国でなくてはならないのである。
 その歴史観を忘れ、粋(いき)がって日本を守ると言って自慢げにどこどこに行くと言う人は日本国民を守るべき人であることを忘れた公人の姿であり、辞めて個人になり行くべきであろう。
 そんなに戦没者の魂への思いがあるならばそうすべきではないだろうか。行ったから魂への念があるとは限らないーー。自分たちの思いの道具にしてはならない。
 相手がいやだと歴史観から言っているのだから。行かれるならそうした争い事を収めてから行ったらいい。
 又そんなに戦没者を思っているならどれだけ普段行っているのか、毎日でも国会の帰りに行れたらよいのではないかと思う。ここには魂はずーと居るのであるから。年一回だけで本当に魂が喜ぶとは思わないのである。国民の多くもそうおもってもいるのだと思う。本当の戦没者への誠心とは、そういうものでありこれが、本来の日本人の  弔い心なのである。 こうした人の浅はかさが見え隠れする。こう思うのは筆者だけだろうか。
人が「体験しない人の言うことは3分真理しかならない」と言った織者がいる。本当である。
 国を治める人達さえ体験しない人が多くなっている。何事も同じであるが、肌で実態を見聴きして感じることと100冊の本を読んだ感慨とは、必ずしも実態ではないことを知るべきであろう。
このような人たちに任せてよいのかと憂うことほど悲しい国民はないのである。
 過去の歴史は表面の書かれたものだけでなく、現地での原体験の人の感慨こそ大事である。
痛め傷ついた人たちは、永遠に傷跡として心に残るもの。某大統領は先日「1000年以上この怨念は残るであろう」と言って演説をしているからである。
 「子どものいじめ」で良く言うことである。 「子どものいじめ」は、永く心に残ると国の偉い人も言うが、日本に傷つけられた国の国民の傷も同じである。国と国とのことの終戦処理で終わったと言うのは、政治的優位に有る国の言うことである。
 沖縄の人たちがなぜあのように言っているのか。これも同じであり、沖縄が戦後27年間すべてを背負ってアメリカの植民地(施政権)として有ったことと、沖縄人による必死の日本復帰運動により返還されたことを、国民は忘れて居るのだ。
必死にならない当時の命が根づいているから、一向にいい形にならないのである。
 理解しない国民への心の怒りなのである。同じ国民だか言いにくい沖縄気質がそうしていることを知らねばならない。だからいつも要望を政府へ政府へと、替わりに申し出しているのを鈍感にとらえていてはならないのである。
 北海道から九州までの全国で沖縄の人の鎮魂の日を設け沖縄の人の心の安堵への応分の取り組みをすべきである。これが沖縄の人への人権の解放となるのである。
自らの国民の心の奥底を見つめられないのだから隣国と、うまくいかないのは当り前ではないだろうか。(y・k)