2013年7月17日人権は、何のため!
13日は、「生命尊重の日」であった。
最近、人権が広く取り上げられてきている。生命尊重は、人権尊重の底流にあるものである。
「人は、生きて初めて人権を共有できるもの」だから。ゆえに「人権の最大の侵害は、命を奪うこと」である。そうした論議に直接ではないが、危惧する人権的な意味合いを持つことが最近、話題となっている。
その一つは、憲法改正論議である。もう一つは、パキスタンの少女「マララ」さん「16歳の国連で、すべての子どもに教育権利を」の演説である。
憲法改正について、これは、政治の争点である。いろんな論点でこれを改正したいと言う人とこれは守るべきである人等多様な捉えの中で論議されている。憲法は、国民を守るものであり、国民が国家権力に侵害されてはならないためにある。憲法は、①国民の意思の集大成されたものである。よって為政者は、②国民を守るため憲法を尊守すべきである。ところが、国民の意思でなしにアメリカから押し付けられたという論議、また国民を守るという観点から、同盟関係論を出して軍隊・自衛隊の海外派遣が必要らしき論議もある。またこの中間・反対との論が出てきて改正・反対の意見が出ている。日本国憲法は、ドイツのワイマール憲法を真似たと言われるが定かでない。ワイマールは、「国民主権」の共和制であることは間違いない。特徴は、「人権保障(社会保障)」規定は、世界初の憲法であった。自衛の範囲の軍を持ちとある所は、「平和憲法」である。
こうした3つの柱が現在の日本国憲法での解釈論の柱になっているから、似ていると言われるのであろう。このように今や民主主義国での憲法は、「基本的人権の尊重」を柱に掲げているのである。その国民を守り、また国民もこれを担うこととして、「主権在民」がある。
「人権の最大の侵害は、命を奪うこと」であるから、その命を損なう最大なことは、戦争であるから「戦争放棄」として「恒久平和主義」がある。アメリカが日本の他国侵略の根を絶つ為に、この条項を入れたのではなく、最高的な民主憲法上での人権的な法として存在していると考えている。(自論)
国力を強くすることとは、軍事ではなく国民の生活を強くすることであり、人の生きていける力を強くしていくこと、そのためには、交渉力・友好力等を強くして安寧さの保持力を強くしていくことが国の務めであると思っている。これが、人権を守り保持していく最大の行為であると考える。
2つ目の出来事である。パキスタンの16歳の少女「マララさん」が、女性の社会進出を否定するイスラム過激派から「子どもたちのすべてに教育の機会を」と言って立ち上がったことから撃たれて負傷した事件である。幸に一命を取り留めて、このたび国連で演説をされたニュースである。「憎しみの連鎖はどこかでたちきらなくてはならない」(中日新聞:中日春秋より)「私は、過激派を憎んではいない。過激派の子どもたちを含めてすべての子どもに教育の機会を与えてほしいと伝えるためにやってきました」との演説である。最後に言った言葉は、「テロリストは私と友人を銃弾で黙らせようとしたが、私たちは止められない。私の志や希望、夢は何も変わらないから」「一人の子どもが、一人の先生が、一冊の本が、一本のペンが世界を変えることができるのです」子どもの人権を主張する勇気ある、この少女の叫びには、心を揺さぶるものがある。(写真:国連の世界人権宣言掲載の新聞・ヒュ-マン・ライツの文字が観える)
★ 現状を解決せずして、言いがかりをつけていたり、方法論ばかりを言ったり、改正したりしても安寧は訪れないのである。「ズバリとその人に会い開襟を開いて勇気をもって話し合うこと以外ない」のである。「相手も人、自分も人だからである」、会えばモンスターでなく同じ人だと気が付くのだ。合わなければ、その間の対策は、心配でどんどん過激なものになり、時間と金を費やして無駄に近いものになることを知るべきであろう。おそらく相手も同じことの悩みを持って、安寧を望んでいるものだ。(y・k)