2011年10月26日原発と人権について
人生は幸せに楽しむ権利がーー。
時の移ろう季節を感じるのは、だれ人にも平等である。
景色を見るのも平等であり自由である。景色は、身分や財産に関係なく
見ることができるからだ。
秋は、人の命を金色に輝かせてくれる。
多くの木々が紅葉となり一年の終息を迎え、又来年の栄華のための
栄養を貯めにかかる。
その成熟した風景が今なのである。
金色の稲穂の収穫、並木道の銀杏のじゅうたんも黄金色である。
人間の一生も、このようにありたいものだ。
しかし、こうした普段当たり前の故郷の景色を見られない人がいる。
福島の原発事故による避難された人たちである。
普段と変わらない景色がそこにあるが、それを見ることができないのだ。
目には見えない放射能のためである。
景色の自由を犯す原発は、人の命を無にして人の生きる道を閉ざしてしまう。
世では、考えられない悪魔の産物でしかない。
自由に生きる権利を侵しているから憲法違反なのである。
声を大きくしなくてはいけない。騙されてはいけない。
一握りの物理学者の試してみたい究極の欲望と利権との絡みにより仕組まれた
原発の偽善が暴かれつつある。
それは、危機管理としての汚染処理が大昔にやることと同じ非科学的な方法しか
手が無いことが、それを証明している。
秋の句に「朝顔に つるべとられて もらい水」(加賀の千代女の句)と言う句がある。
「朝起きてみたら、汲み上げ井戸のつるべの縄に朝顔のつるが巻きついていて、
つるを切るに忍びないので隣の家から水をもらった」という句である。
ほのぼのとした句である。
朝顔は綱にしみ込んだ水気を求めて必死に綱に巻きついて行ったのであろう。
自然も人も同じで生きるために名声や確たるものを得ようとするのは同じである。
後に起こる迷惑や災難すら、構わず目の前にある魅力につるを巻き付けていくものだ。
原発の科学者達も朝顔と同じである。本能のまま動き勢をつけていったのだ。
「理が有っても義が無いのである」
人は、何故この世に生を受けたのかの、人としての命のコントロールが効いていないのである。
人権で言う「人間らしく幸せに生きていくための権利」をだれ人も侵してはならないと言うことを
科学者や企業は命の奥底に無くてはならないのである。「人の幸せを侵すものは、魔物であり
サタンである」との原爆禁止への先哲の叫びを、心して
いくことであろう。
特に未知の特別なことを特別な人達だけが世に問う時には、
この観点に照らして、どうなのかを知識の無い一般民衆が、人権侵害の判断をもって
声を挙げて、騙されないことが大事なのである。(y・k)