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価値観を考える

 人間の価値観は、人それぞれである。
変らぬものと変るものがある。

 変らぬものとは、永き人生で獲得した思いの深い絶対性の
強いものであろう。

 変るものは、その人の置かれた状況により、刻々と変化する
価値観である。この判断も元を正せば、多くの経験とか師等から
得られたことである。

 人は、むしろこうした相対性によるものの方多いものだ。
価値は、その人にとってあらゆる面にとりプラスなのか
マイナスなのかの判断である。

 人は、一生の中で良い時もあれば、悪いときもある。
ゆえに判断は、その時々の価値として変ってくるものだ。

 人の行動は、瞬時に刻々と変化する中でこうした価値判断が、
行動のベースとなっている。

 しかしながら、行動に移した時思いの通りいかないことが多い。
それは、社会行動の場として、対相手がいるためである。

 こうした中では、頑固一徹も時には、大事だが、ほとんどのことが寛容さ
を必要としているものだ。
「寛容は、手ぬるいことではなく、不正を大目に見ることでもなく、
甘やかすやさしさでもない」が、子を持つ母親の愛情に似ていると思う。

「話を良く聞き、考えに理解しようとし、できるだけ意に沿ってあげたいと思い、
間違いに酌量があれば穏便に許す余地を残してあげたいと思う」このやさしさが
寛容の精神であると先哲は言うからだ。

 また、アリストテレスは、徳論上の概念として中庸(ちゅうよう)について
「勇気は、蛮勇や臆病の中間的な状態である時、初めて徳として現れる。
この中間を思慮(フロネーシス)でありそれは、実践知である」と言う。

 中国の孔子は、社会生活での行動するに当たり、
「常にその時々物事の判断する上でどちらにも偏らず、
かつ平常心の感覚でも理解できるもの」を中庸と言っている。

価値行動のありようについて、このように二人の先哲は言う。

こうしたことを総じて見れば、「全てを包含できる高みの心の中から
湧き上がるもので、
しかも互いの許容のなかで、互いにプラスのベクトル(方向と力)を持つものであり、
そこに関わる人すべてが、よき方向に行くという精神での話し合いの中にこそ
社会での実践的な価値観の極みがあると考える。(y・k)