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献血

 1983年4月22日付の地方新聞「63回目の献血続く」と題して、義父の顔写真と定年後も献血を続けている話が掲載された。日赤の巡回献血に協力している人として紹介された。
 記事には、「友人の病気を助けるために、一度協力したのがきっかけで今でも続けています。幸い、生まれてから病気知らず。可能な限り、続けていくつもりです。弱い人を強い人が助けていくとでもいうのでしょうか。」と義父の話が書かれていた。
 梨の人工授粉が始まったという記事と写真、その横に、当時61才で若々しい写真とともに紹介。文の始まりには、「61歳という老躯でありながら、いまだに献血を続け・・・」とある。その当時、61才という年齢に対する世間のとらえ方が伝わってくる。

 コロナ禍において、患者さんに届けるために必要な血液量の確保が困難な状況にあり、その要因として、献血に協力できる方の減少があげられている。
 献血センターのホームページを開くと、必要とする血液の状況が分かるようになっている。例えば、A型:非常に困っています。O型:困っています。B型:非常に困っています。AB型:困っています。と言うように。
 緊急事態宣言が出ている中、ご主人に止められながらも、予約していたので献血に協力しに出かけた稀有な友人がいる。電車にも乗らず、自宅から都心まで車を運転し、一人で献血に出向く。薬を服用していてもできる「成分献血」というかたちで協力している。なかなか真似できることではない。
 献血には、1回に200mlまたは、400ml。どちらにするかは、本人の希望ではなく、例えば体重が50㎏以上ないと、400mlの献血は無理である。諸条件をみたしてこそ、本当に血液を必要とする人のための献血ができる。
 安全、安心できる血液の提供者しか受け付けてもらえない。
 65才以上の献血もできるが、その場合も60才から64才の間に、献血経験がある人に限られている。
 献血ルームに行くまでに、やはり、義父の言葉にあったように、相互扶助のような考え方、精神面の強さがないと、献血に協力できない。

 義父は、18年間で64回献血。計算すると、1年間に3回以上献血に協力していたことになる。大都市では、昭和25年くらいから一般の献血が実施されているが、義父の住んでいた場所は、昭和40年から始まった。その5年後から、献血に協力している義父は、新しいことに対して偏見を持たず、自分の考えに従い、行動できる人だったと言える。実直でいつも穏やかだった義父。生前に、献血について、話を詳しく聞こうとしなかったことを残念に思う。(C・S)