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ホーム活動報告

可児市人権研修会・開かれる!

 新春を飾るに相応しい仕事始めは、人権研修会であった。
各学校16校からの代表の人権担当の教師が集まり研鑽をかさねている。
年2回開かれ各学校での人権教育のありようを話し合っている。

<委員長(担当校長)の講話>

①子どもの人権を大切にする教師とは?②友達の人権を大切にする心の優しい子にするには?との2つの内容は、適格なことを経験上からのお話であり、教師として、心していく大切なか要点であった。

後、いつも本センターの局長の講話依頼をいただきやらせていただいている。

<局長の講話>かいつまんでお伝えします。

①各学校の人権委員の教師のご協力により多くの実績が上がりました。

学校への26年度の実績につき、その上から局員から報告しました。<人権本の巡回制度の読者数1644冊(小学校のみ)・<人権標語・300字小説の応募:2270点(内小説401点)>・<ぬくもり教室の開催:広見小・今渡南3~4年生約500名)>

②今報告5月度の時の話の冒頭に現在の人権教育は、人権文化という本来日本の伝統文化等のなかより人の心の完成を磨いていくことの大事さを中心に据えて、実施されることが多い。たとえば、俳句・標語・絵画・詩・作文・紙芝居・DVD・映画等には、書く人・見る人の思いが現されるから、人権を実地で感性としえられることを多く教科の中でやることが重要である。子ども達が互いに良い面を感じ取れ、たたえ合うことが出来るようになることが人権教育の本髄であろう。

③一人ひとり子供も多様な個性の持ち主がゆえに、細かく取り入れながらの感性力の育みが大事であるとの「ペスタロッチの直感教授」に私どもは呼応して継続的・学校事業として、取り組みをさせていただいています。
特に、詩心事業として、人権教育での成果を上げている学校も多い中、詩心にある人権で言う「人間らしさ」を端的な表現で捉え心の余韻となることが、先々の気性となり本来の他人の人権を守るようになることを期待してのことである。先の12月には、詩人をお招きして講話と朗読の企画行事を終えた。

④今回は、昨年亡くなった詩人の吉野弘の「I was born」朗読して、感想を付けさせていただき、特に人が生まれ出ることの意味は?・生れ出た時からの受身での人権への出発.それぞれ違う全ての人間の群像と葛藤の中で生涯をつくる。このときに大切な人との幸せづくりの「たたえ合い」「支え合い」が、究極な人権尊重の姿と言えまいか。以下

講話の内容を記す。

「人の生涯を想う」

平成27年1月9日  可児市人権啓発センター  川手靖猛

 そばに置いて時々読むと、心和む本・勇気が出る本がいくつかある。

特に、詩は忙しい時に読むことが多い。詩心は、人権でいう「人間らしく」を、妙に端的な表現で捉え余韻が心に染みるものだ。「吉野弘」等の詩集も好きである。

 また、人生を強く生きるに、良く読むのは、「船井幸雄」等の本である。

 昨年の1月に「吉野弘」と「船井幸雄」の両氏が逝く人となってしまった。最近、本屋で2人の本が並んで置いてあったので、もう1年たったのかと思った。

「吉野弘」詩集で有名なのは「祝婚歌」であり、夫婦での日常での生き方を綴っているから、自分に重ねて安堵でき、気負いせず生きる、自然体を詠んでいることに共感している。

また「夕焼け」には、日常の電車の中で良くある光景、若い女の子が、年寄りに席を譲ったり・譲られない光景を、第3者的に思いを込め見ながら詠んでいて、その娘の心の内証はいかばかりかと追憶され、譲ってしまえば、心が映え綺麗なこの「夕焼け」を見ることが出来たのにとの思いが綴られている。

 本センターでの毎年募集の「300字小説」のストーリーにも、時々子ども達が書かれる題台でもある。   生来から持ち合わせた道徳の素なのであろうか。

次に「船井幸雄」は、自らの人生体験からの確信を分かり易く書かれているから好きである。

 読んでいて、自分の半生と重なり、やけに納得できるからである。また反省できることが多く、何かこの通りやれば行けそうな感がするのである。

 ともかく、両氏は、多くの人間に、生きる方途を示し切り感動を与えて逝く人となった。

最後に、人権の意義の<人間らしく「幸せ」に生きていくための権利>の中の「幸せ」のことを吉野弘は、<幸せと辛(つら)さと言う字は、一だけの違い。その一は何か。幸いの中の人知れぬ辛さ、そして時に、辛さを忘れてもいる幸い。何が満たされて幸になり、何が足らなくて辛いのか。>と言っているのである。

 幸せも辛さも、裏表の関係にあるから、同じに感じるのは、辛さが無ければ幸せが湧かないことをいっているのか。辛さは、幸せの基づくりの為であろうか。

もう一つ吉野弘の詩に「 I was born 」がある。

母が自分を生むと同時に亡くなった少年が父親と歩きながら話をしている光景を綴っている。

 この一説にこうある。

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

ある夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと、青い夕もやの奥から浮き出るように、白い女がこちらにやってくる。―――。女は身重らしかった。父に気兼ねしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の、柔軟なうごめきを腹のあたりに連想し、それがやがて、世に生れ出ることの不思議さに打たれていた。女は行き過ぎた。

少年の思いは、突飛しやすい。その時、僕は<生まれる>ということが、まさしく<受け身>であるわけを、ふと諒解した。僕は興奮して、父に話しかけた。

―――やっぱりI was born なんだねーーー

父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。 僕は、繰り返した。―― I was born さ。受身形だよ。

正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意思ではないんだねーーー

その時、どんな驚きで、父は息子の言葉を聞いたか。

僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。

それを察するには、僕はまだ余りに幼かった。

僕にとってはこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

父は無言でしばらく歩いたのち、思いがけない話をした。

―――蜻蛉(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが、それなら一体、何の為に世の中へ出てくるのかと、そんな事がひどく気になった頃があってねーーー

僕は父を見た。 父は続けた。

—-友人にその話をしたら、ある日 これが蜻蛉の雌(かげろうのめす)だと言って拡大鏡で見せてくれた。 説明によると、口は全く退化していて食べ物を摂るに適さない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。

ところが卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりとした胸の方にまで及んでいる。

それは まるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉(のど)もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい光の粒々だったね。

 私が友人の方を振り向いて<卵>というと

彼もうなずいて答えた。<せつなげだね>。

そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落として すぐに死なれたのは ―――。

父の話のそれからあとは もう覚えていない。 

だだひとつの痛みのように切なく 僕の脳裏に焼きついたものだった。

――ほっそりとした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体―――。文・終わり

人は、何のために生まれてきたのかーー。生きる長短に関係なく、成し遂げる使命のため生きることかーー。

人は、自分でしかできないことをするために生まれてきたとしたらこの母は、この少年という、すごい人を生み残すためだけに生まれてきたのかもしれないーー。

だからお前は、誰にもできないことを果たすことが大事なんだとーー。

 人が生まれでることは、自分で選べない条件の中に生れ出る。

あらゆる(性別・国籍・情勢・家庭状況・親の性格また貧富・職業・顔つき・体形・健康条件・障がい・病気)このような、選ぶことができないゆえ「絶対的な人権」と言われるのである。

ゆえに基本的人権の内とされ尊重とされているのである。人の誕生は、「全の違いを持って生まれる」がゆえに、「人権は、受身からの出発であり差異からの出発」なのである。

誕生した子は、子どもの時から人としての幸せ獲得の人権闘争をしながら育まれるのである。人権は「人間が人間として幸せに生きていくための権利」と定義されている。

人は子どもの時から多くの差異を持ったが故に個性となり、「思い・言い・行う」ことが瞬時でも違うのである。

ゆえに学ぶことは同じでも、学ぶ能力差異があるが、均等に学ぶ権利あるとしているのです。

こうした子供たちを超越し包含しながら育む教育の意義は、何に増して大きいのです。

この意義を尊重して、更にいじめ防止等のためにも差別・侵害の起こらないクラスの構築をお願いするものです  (y・k)