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「春の思い」

 天文学でいう立春の2月4日の9時46分が過ぎても、春未だ「遠からじ」の感がする。

でも、ふと裏庭の紅梅の大木の枝につく小さき蕾が赤づき、もうこの時から色づいていたのに、びっくりである。

寒いと言っても、凍てつく氷を見ていないのが不思議である。暖冬なのかと考える。

良く見ると、庭の木々も鉢の中からも、芽吹きの兆しが見え、さぞかしこの土の中には、エネルーギーが滾(たぎ)って、地上に出る主人の草花や木々を立派に見せようと張り切っているように思える。

自然界の人間を含む「生きとし生けるもの」に平等に与えられているものこそ「その時」である。その時に応じて、それぞれが天の与えた資質に沿って謳歌(おうか)する。これを味あうのが春である。

またそれぞれの境涯である。

しかし時は、昨日の時や明日の時を使うことはできない。
ゆえに、今に生き、自分の果たそうとする役割を、今見せてくれているのであろうか。

それもそのはず、自分には、自分を見ることはできないから、他のものに見てもらい自分の素晴らしさを、矜持(プライド)として、自らの誇りを見せてくれているのである。

人間も同じである。評価は、自分でなしに他人がするものであるからだ。

草木も、その都度自分を、より高めようと努め栄養にあった花々をさかせると生産者は言う。また末永く生きようと考え、種をどのくらい付けることが良いか判断するという。

木々も、またその樹の中から生死の枝を見定めて生きながらえるように死枝を選ぶという。

誰がどうして、絶妙の仕掛けをつくり刷り込んだのかわからないが、人間も含めた「生きとし生けるもの」の生命のリズムの不可思議さ、なのである。

その証は、永遠に解明できないであろう。

人間が自分さえ自分であると証明はできないのである。自分の真顔さえみたこともないゆえである。鏡や写真付き免許書等すべては、仮の証しでしかなく何もないのである。全て他人による判断しかないのである。故に一対一の対話こそ大切なツールである。

パスカルの言った「人間は考える葦である」との言葉の通りである。この自然界であるとの証明できるのは、突き詰めていっても残るのは、「今考える自分が瞬間に、ここにいることしか真実はない」と言う事である。
あの沼地にも春を待つ葦が芽づいてきている頃であろうか。(y・k)