2016年3月11日大切な人への思い
本日は、東日本大震災から5周年を迎えました。
発生時間の2時46分に犠牲者1万5,000人を超える人々の御霊に心より哀悼の意をささげました。
人は、死を免れることはできないこととはいえ、大切な人を突然の惨事でなくしてしまうことの悲しさと切なさは、はかり知れないもの。
永い人生、短い人生であっても、その事象の大きさに戸惑う事は多くあるが、これ程のことにはならない気がする。
起こることの大きさは、だれも予想しないことであり誰にも分らない宿命に近いものだと思う。
それにしても、今になっても復興が進んでいない。対岸の火事のような姿勢を反省しつつ少しながらの募金を贈らせてもらった。
つい先日、明治から昭和にかけて活躍した柳田国男(民俗学者)の遠野物語を読んだ。
「生命は、永遠である」との説が道理にかなうものとは思うものの、今いるこの場所に帰着する考えも腑を落ち着かせる思いになると考えたからである。柳田は、東北での明治の3陸津波の惨状を見て、あの多くの人の魂は、どうしているのか?を生涯をかけて考えている。
「先祖の話」で、霊は里の見える山の上にいるのだとーー。言う。丘の上から皆を見下ろして、見守るとの主旨を言っていた。何か安堵する結論である。
このことを直木賞作家の重松清は、「見守ると言う感覚が、人々を励ましたり元気づけたりする」とこの柳田の霊のいることの意義をいっていた。
「死者を悼み、魂の救済を求めると言うこの精神が、柳田の原点である」と赤坂憲雄(民俗学者:東北学を提唱)も言っていた。
大切な人を亡くした時に、人は思う。あのときにこうして上げればよかったとーー。
これすら思う、ゆとりの出来ない今の東北の人たち。
早く人生の春がくることを祈らずにはいられない。