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ホーム活動報告

可児市人権教育推進委員会が開かれる!

5月21日に平成26年度第1回の可児市人権教育を各学校で推進する委員としての教諭の皆さんの研修会が可児市教育研究所の主催で開かれた。本センターから、毎回の講師として招かれ、局長が講話をしている。

初めに委員長からは、「いじめにあっていたのにも関わらず、そのことを一切言わなかった子を通して、親にも学校にも言われない心の苦しさを考えて学級での対応をしてほしい」との主旨の挨拶に続き、教育課長からは、自らの体験談を通して、一人の女生徒が卒業式の時「先生が居たから学校に、来ることができました」との言葉を思い浮かべ、いじめを受けていたらしい、この生徒に対して、特別これといって、その解決ができたわけではなかったが何時もそばにいることだけが、せめての為せることであった。残念なのは、そのことを取り除けなく卒業させたことを今でも悔やんでいます。とのお話であった。

 貴重な千金に勝るお話であった。若い先生方に大いに体験を話す機会こそ大切なことであると感じた。

私からは、本センターの学校への3事業の話しをさせてもらい推進委員の皆様への協力依頼をしました。

その後に本センター局長から、人権教育は理屈でなしに、体験談こそ、大切である。
直感教授を唱えた近代教育の父である「ペスタロッチ」のことを踏まえ、人間としての教育のありようは、特に感性的に直感でこの出来事がおかしいと思える無意識の態度に現れるような人権感覚を育成する。との2003年3月15日の人権教育・啓発に関する基本計画の閣議決定の内容にもあることからもわかる。との話をして、このことは、ペスタロッチの弟子コルチャックに引き継がれ、子どもの権利条約への草案に結実して死後47年後にポーランドの国から国連に提出され子どもの権利条約となった。今年は、その記念の年であり国連の採択25周年であり日本の条約批准から20周年となるのである。

平成7年国連の「人権教育のための10年」において人権文化の概念が提唱され日本でも同和問題のとらえの大切さは残して、人権同和教育から人権文化を中心とした教育へと変わっていった。ともかくも人権教育とは、感性の磨きであり、このためには、どのような育みが大切かを次の2例をつくりましたので、このことから考えてみてほしい。

一つは、詩心であり詩は創る人の思いを凝縮させて書かれるので心豊かな深い意味合いとなり、理屈なしに書いてもらえる人権教育となる。今注目を浴びている。

もう一つは、人権の心といっても、言い表せないので、分かり易く「母の心」であると思うというと、多くの子どもには、母の心は何かを考えさせることもできる。このこと2例は、大事であるので、ここで紹介をする。として、つぎの文を提示して、考えてもらうようにした。(m・h)

詩心こそ人権心であり道徳の深みである。

<26年度・第1回可児市人権教育推進委員会>
平成26年5月21日
可児市人権啓発センター
川手 靖猛

詩人の吉野弘が1月になくなった。I WAS BORNは、少年を生むと同時に亡くなってしまった母のことを、少年の父がカゲロウという2日、3日で死ぬ虫を通して話すくだりは脳裏に灼きつく。近いうちに人権の題々にしてみたいとも思っている。

詩人は多くいるが、一番読まれているのは、男性では、谷川俊太郎であると、「少年文芸」創刊の編集をした息子の言うことだ。谷川先生が賛成してくれなかったら創刊できなかったと言っていた。女性では、茨木のり子であろうという。「わたしが一番きれいだったとき」はフォークソングとなった。吉野・谷川・茨木先生の詩等には、人権の訴えがちりばめられていて、心に染み入る。だから、人権心の高揚となり道徳の深き底流となるのである。そこで、今日は茨木のり子の「自分の感受性くらい」 を紹介します。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかもが下手だったのはわたし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

以下、人権感覚は、母の心であるに続く

人権感覚は、母の心である。

(26年度・第1回可児市人権教育推進員会)
平成26年5月21日
可児市人権啓発センター 川手靖猛

今日は、鏡の中に映るY君の話をしようと思う。

二週間前の5月11日の日曜日は、母の日であった。母の日を意識しだしたのは、老いた母を見た時だという。それからYは、小さな時からの思い出とその後の半生をぽんぽんと言いだした。「本当にその子どもの心を一番わかるのは、子を産み育てた母しか、わからない。

世界中のだれよりも10月10日早く、自分を知ってくれていたのが母である、何かをしでかしても、いつも盾となり守ろうとしてくれた。

転んで怪我をしても痛いと言うと、痛いだろうといい半分の痛さを担ってくれ、育てていた小鳥が死んだ時、泣いてもいいんだよと言って一緒に泣いてくれた。

足をねん挫したとき小さな母が、遠い骨接ぎ屋におんぶしてくれ、通ってくれた。

いつも何か失敗しても、いいんだ、いいんだ『何とかなるさ』となぐさめて楽観さを教えてくれた。高校を出て就職をする時、胃が悪いのだから牛乳を買って飲めと別れ際に何度も言ってくれた。19歳の時、大学に行きたいと出戻ったら、紋なしの金を出しながら、すまない、すまないと言い、これしかないから早く帰って、働けと涙を流して見送ってくれた。

おかげで、33年間会社で辛抱できたそうだ。

そのことを思い丁度今から10年前の平成16年、60歳の時、大学を卒業し法学士となってその証を見せた。入院中の母は、涙を流し喜んでくれ10日後に亡くなったそうだ。

それからまた、社会に恩返ししたいと思い社会教育主事の資格を大学で取得して今があるという。Yが言う、議員になったときも、決して喜ばなかった。名誉でないぞと叱られたそうだ。

 だが『子ども110番の家の制度』(指定民家制度)を日本で初めて可児署長に提言して、やがて全国150万軒になった読売の記事に載ったのを見て『子どもこそ大事よねえ、好い事をしたね』と喜んでくれたという。また可児の子どものための『わくわく探偵団』の記事も見て、いい子が出るといいねと喜んでくれた。無学の母は、出稼ぎの父に手紙を出すため平仮名を懸命に勉強して、Yにも年に1度ハガキをくれ褒めてくれたのだという。子どものことには、特に喜ぶ母だったという、今の『子供のいじめ防止の第3者機関と条例」』の先駆け提案にもきっと喜んでくれているに違いない」と言うと、Yは、一方的に一気にしゃべると鏡の中から消えていなくなった。Yは、時々よく言うことがある。「幾つになっても人は、みんなお母さんから生まれ出たのだから母こそ人間の原点である。ゆえに本当の人権感覚は、母親しかわからないかもしれない。それは、子のために命を削っても守ろうとするやさしさの本能心であろう。自分もこの心にちょっぴり近づいたと思うとき、何かが心に芽生えてくる。その感覚が人権感覚であろうかそんな気がするのですと」。   

教諭を目指した、あの初心の志と、こうしたことは、どこか似ているのではないでしょうか。子どもへどれだけ尽くしたかは、尽くされた子どもは、生涯忘れられないでありましょう。

どうか末永く初心であってほしものです。

ここまで